プロイセンの日本遠征 1860年-1861年

2021年はプロイセンと日本が修好通商条約を締結してから160年目にあたる節目の年である。この独日交流160周年の記念に新たなトピックポータルを設け、1860/61年のプロイセン遠征隊の旅と日本の幕府政府との交渉の様子を紹介する。特使を務めたフリードリッヒ・ツー・オイレンブルク伯爵は、数ヶ月にわたる外交的駆け引きの末にようやく同条約の締結にこぎつけた。この条約は、他の欧米諸国と日本の間に締結された条約をモデルとしている。これは協定によって国家主権の一部を失うことになる、日本にとって大変不利な不平等条約の一種だった。

使節団のメンバーは、日本滞在中に書籍や地図、絵巻を当時のプロイセン王立図書館 — 現在のベルリン国立図書館(SBB-PK)— のために入手した。のちに使節団参加メンバーの個人的な収集品や遺産の中から、さらなる作品が王立図書館の所蔵品に加わった。これらの品々は同図書館日本コレクションの礎となり、そのうちおよそ100点が今も同館に所蔵されている。日本古典籍コレクションは使節団メンバーにゆかりの作品も含め、図書館のデジタルコレクションで閲覧することができる。当館日本コレクションの起源に関する詳しい情報は、リンク先のトピックポータル参照のこと。

特に言及のない限り、以下で述べる使節団遠征の説明は、アルベルト・ベルクの「Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen [公式資料によるプロシアの東アジア遠征記] (Berlin, 1864-1873, 全4巻)」の記述に依るものとする。

到著

日本への行路と到著



フリードリッヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵(撮影1865年頃)
出典: bpk / Loescher und Petsch

19世紀の半ば、プロイセン王国は中国、日本、シャム(現タイ)と修好通商および海運条約を締結し、学術的・経済的な視点から調査するため、同地への使節団派遣を決定した。決定の背景にはプロイセンの貿易政策およびパワーポリティクスの利害関係があった。ドイツ関税同盟、ハンザ同盟都市のハンブルク、ブレーメンおよびリューベック、そしてメクレンブルク=シュトレーリッツ、メクレンブルク=シュヴェリーン両大公国のこの条約への参加決定で、プロイセンはドイツの貿易利益を代表する国として登場し、欧州の列強に明確なシグナルを送ったのである。

オランダ、イギリス、フランス、ロシア、そしてアメリカはすでに日本と条約を結んでおり、アジア貿易における基盤を築いていた。だが日本に滞在するドイツの商人は、諸外国の保護を受けつつ違法の商売を営むことしか出来なかった。中国のほうがより肥沃な市場と見なされていたとはいえ、すでに日本で活動しているドイツの商人にもっと安全な法的基盤を提供し、アジアとの貿易全般における柔軟な対応を可能にする条約の締結は大変望ましいものだった。当時ドイツの船舶が日本の港に寄港することが許されるのは緊急時に限られていた。

使節団の代表らしい体裁を整えるため、遠征艦隊は遠征中に艦隊司令官へ昇格したスンデヴァル司令官が率いる4隻の艦船で構成された。

  • 蒸気式コルベット艦アルコナ(乗組員319人)
  • 帆走フリゲート艦テティス(乗組員333人)
  • スクーナー、フラウエンロープ(乗組員41人)
  • 貨物船エルベ(乗組員47人)

使節団は海軍関係者を除くと以下の人物で構成されていた。

中国、日本、シャムの宮廷の特使兼全権大使であるフリードリヒ・アルブレヒト・グラーフ・ツー・オイレンブルク伯爵(1815-1881)が指揮を執り、秘書官カール・フリードリヒ・ピーシェル(1821-1906)のほか、アタッシェ(随行員)であるマックス・フォン・ブラント(1835-1920)、テオドール・フォン・ブンゼン(1832-1892)、伯爵の甥のアウグスト・グラーフ・ツー・オイレンブルク(1838-1921)の3人が同行した。調査には植物学者マックス・ヴィフーラ(1817-1866)、動物学者カール・エドゥアルド・フォン・マルテンス(1831-1904)、地質学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵(1833-1905)らが参加した。農業の専門家としてヘルマン・マロン(1820-1882)、園芸家としてオットー・ショットミュラー(?-1864)も使節団に加わった。また画家のアルベルト・ベルク(1825-1884)、画家のヴィルヘルム・ハイネ(1827-1885)、写真家のカール・ビスマルク(1839-1879、フリードリヒ・アルブレヒト・グラーフ・ツ-・オイレンブルクの婚外子)らが、遠征を記録するために雇われた。しかしビスマルクが使いものにならないことが判明したため、ジョン・ウィルソンおよびアウグスト・ザハトラーの二人が、現地で写真家として追加採用された。経済的利益に関しては、プロイセン人商人のフリードリヒ・ヴィルヘルム・グルーベカール・ヤーコプ、そして商務顧問官のフリッツ・ヴォルフ、ザクセン商工会議所の全権代理人であるグスタフ・シュピースが担当した。ロバート・ルーチウス博士(1835-1914年、1888年に叙爵しル-チウス・フォン・バルハウゼン男爵に)は、経由地のセイロン(現スリランカ)でまずは医者として追加で一行に加わった。

機材や贈答品、商品サンプルは海上を輸送され、1860年8月までに4隻全ての船舶が目的地のシンガポールにたどり着いた。だが大半の使節団メンバーはスエズ運河とセイロンを経由し、陸路でシンガポールへ向かった。そしてシンガポールでこの先の旅路のための使節団が新たに組織され、参加者はアルコナ号とテティス号に乗り込んだ。

当初はシンガポールから中国へ向かうことが計画されていたが、中国と英仏との間にいわゆる第二次阿片戦争(アロー戦争)が勃発し、現地の政治的状況が不透明だったことから、一行はとりあえず日本へ向かうことにした。貨物船エルベ号は修理のため、ひとまずシンガポールに停泊することになった。同地で商品サンプルを展示したいと考えていたヤーコプ、グルーベ、ヴォルフら3人の商人も、エルベ号とともにシンガポールに残った。アルコナ号、テティス号、そしてフラウエンロープ号は1860年8月12日および13日に日本へ向けて出航した。アルコナ号およびテティス号はおよそ1ヶ月をかけて日本にたどり着き、9月4日および9月14日に江戸の港に錨を下ろした。しかし3隻めのフラウエンロープ号は不運にも日本到達を目前にした9月2日、台風に遭遇して乗組員もろとも海に沈んだ。



遠征隊員の集合写真: 後列左からグスタフ・シュピース、アルベルト・ベルク、中列左からヴィルヘルム・ハイネ、マックス・フォン・ブラント、全権大使フリードリヒ・アルベルト・グラーフ・ツー・オイレンブルク、前列左からロベルト・ルーチウス博士、アウグスト・グラーフ・ツー・オイレンブルクアタッシェ(随行員)、テオドール・フォン・ブンゼン
出典:: Gustav Spieß. Die preußische Expedition nach Ostasien während der Jahre 1860-62. Berlin [u.a.]: Spamer, 1864 (所蔵番号 Un 5276a)

ドイツに先駆け、アメリカやイギリス、フランス、ロシア、オランダが締結した条約は日本にとって非常に不利なものだったために、日本に到着したプロイセン使節団を取り巻く状況は困難なものだった。これらのいわゆる「不平等条約」は、外国人の治外法権を認めたものだった。つまり締約国の国民は犯罪を犯しても日本の司法権の対象とならず、母国の領事裁判所に提訴されることとなっていた。関税も条約によって規制されていたため、日本は関税自主権を失い、国産品の効果的な保護が不可能となった。また貨幣の交換規定により日本は暴利を貪られることとなった。外国の干渉は父権主義だととらえられ、条約締結で通貨が切り下げられたことによる物価上昇も恨みを買った。とりわけ武家の間では外国人敵視の風潮が広がり、「天皇を尊び、夷狄を退ける(尊王攘夷)」をモットーに、最終的に明治維新をもって幕府の転覆を招くことになる運動が展開されていた。国内で反乱が起こることへの懸念から、新たな条約を結ぼうという幕府の意欲は微々たるものだった。1861年のプロイセン条約も、こうした「不平等条約」のパターンを踏襲していた。条約の改正交渉が実現するまで非常に長い時間がかかり、ようやく1911年に税関自主権を回復したことで、日本は完全な主権を取り戻した。

江戸への到着から数日後の1860年9月8日、 オイレンブルク全権大使はアルコナ号から厳かに下船し、楽隊が演奏するなか幕府が用意した赤羽の宿舎へ向かった。海兵隊員や水兵を従えた使節団のパレードには、悪天候のせいで見物人は期待したほど集まらなかった。宿舎の中庭にはひとまず国旗が掲げられ、プロイセンの陣地となった。使節団全員のためには部屋数が足りず、一部のメンバーは横浜と神奈川に宿泊した。当時すでに交易のため開港されていた横浜の港には外国人商人が住みつき、列強諸国の外交官たちは神奈川に居を構えていた。

現在、赤羽のプロイセン使節団宿舎と隣接した土地には飯倉公園(港区東麻布1丁目21−8)がある。公園には2枚の案内板があり、当時の宿泊施設の位置を知らせる歴史的な市街図が掲載されている。実際に赤羽の宿舎があった場所(赤羽接遇所・赤羽応接所)には、現在は住宅が建ち並んでいる。



プロイセン使節団の江戸入府
出典: Gustav Spieß. Die preußische Expedition nach Ostasien während der Jahre 1860-62. Berlin [u.a.]: Spamer, 1864, p. 140-141間の挿入頁(頁数なし) (所蔵番号 Un 5276a)



赤羽のプロイセン国旗掲揚
出典: Gustav Spieß. Die preußische Expedition nach Ostasien während der Jahre 1860-62. Berlin [u.a.]: Spamer, 1864,  p. 139 (所蔵番号 Un 5276a)



飯倉公園の眺め
画像提供: SBB-PK/Ursula Flache、2011年2月17日撮影



赤羽接遇所の案内板
画像提供: SBB-PK/Ursula Flache、2011年2月17日撮影



歴史的市街図の案内板
画像提供: SBB-PK/Ursula Flache、2011年2月17日撮影



飯倉公園に隣接する赤羽宿舎の位置を示す市街図の詳細
画像提供: SBB-PK/Ursula Flache、2011年2月17日撮影

交渉

交渉の幕開け

言葉の壁のせいで直接駆け引きが出来ないため、協議の手順は非常に煩雑で時間がかかった。使節団の誰一人として日本語を話すことが出来ず、日本側にもドイツ語の話せる人物はいなかった。毎度の会談や文書交換の際には、オランダ語が仲介言語として重宝された。最終的にドイツ語、オランダ語および日本語の3パターンの条約が作成され、紛争が発生した場合にはオランダ語版を有効とすることが決まった。その結果、通訳や翻訳者が橋渡し役として中心的な役割を担うことになった。交渉期間中、アメリカの駐日公使タウンゼント・ハリス (1804-1878)は、自分の通訳だったオランダ人ヘンリー・ヒュースケン (1832-1861)をプロイセン使節団に紹介した。ヒュースケンはアメリカおよびイギリスの条約締結に関わった経験があり、そのオープンで親しみやすい態度によって、すぐさまプロイセンの信頼を勝ち取った。日本側では、1854年にアメリカのペリー提督(1794-1858)との交渉に携わった森山多吉郎(1820-1871)が通訳を務めた。

赤羽に到著したその日のうちに、2名の外国奉行、酒井隠岐守(酒井忠行, 生没年不詳)と堀織部正(堀利煕, 1818-1860)がオイレンブルクを表敬訪問した。彼らはすぐさま使節団と交渉を始めようとしたが、オイレンブルクは政府レベルで直接交渉を行うことを主張した。オイレンブルクの認識では、外国奉行は自分たちと同格の交渉相手ではなかった。9月10日および13日の2度にわたり行われた酒井・堀両名との会合でも、彼らは如才のない会話やヨーロッパの珍味を楽しんで過ごした。



アメリカ大使館のあった善福寺にて撮影された集合写真 。左から4人目が通訳のヒュースケン、右から5人目がハリス駐日領事
画像提供 : 下田開国博物館

9月14日、ついに幕府の名の下に交渉を担当する老中の安藤対馬守(安藤信正, 1820-1871)とオイレンブルクの初めての会談が行われた。安藤の屋敷での両者の初顔合わせは、外交儀礼に則って祝われた。安藤は使節に対して、過去に日本が結んだ条約がもたらした不利益について説明し、それゆえに新たな条約を結ぶことは論外であると遺憾の意を表明した。オイレンブルクはこれに反論し、日本はプロイセンを他の西欧列強より不利な立場に置かぬよう、そしてより多くの条約を締結すればするほど事態は早く正常化すると主張した。双方が立場を譲らなかったため会談は物別れに終わった。合意に達したのは、外国奉行が日本の立場を日を改めて再度説明するという一点においてのみだった。

約束どおり、酒井と堀は9月18日に再びオイレンブルクを訪れた。彼らは日本側の主張を微に入り細に入り何度も繰り返し、拒否の理由を述べたオランダ語訳を添えた2通の文書を手渡した。現在ベルリン国立図書館が所蔵しているこれらの文書についてはリンク先で詳しく紹介する。

9月21日に外国奉行らが再び訪れ、お互いすでに承知している両者の立場について意見交換が行われた。オイレンブルクは、プロイセンを他の西欧列強と対等に扱うことを主張した。外国奉行は最大限の礼節を保ちつつ、現在の日本の置かれた状況では条約締結は認められないと遺憾の意を表明した。行き詰まった交渉を前進させるため、オイレンブルクは最終的に、彼らの訪問自体はいつでも歓迎するが、もう一度「仕事の話」をするのは、外国奉行が交渉のための全権を与えられた場合に限ると言明した([Albert Berg]. Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1864, 第1巻p.348)。オイレンブルクはこれと同時に安藤ともう一度会見させるよう要求し、酒井と堀は彼の要求を伝えると約束した。この訪問はシャンペンと焼き菓子が供せられ、談笑で幕を閉じた。



森山多吉郎の肖像(A. ザハトラーの写真に基づく)
出典: Illustrirte [sic] Zeitung. Leipzig, 935 (1. Juni 1861), p. 373 (所蔵番号 2″ Ac 7169-36/37=914/965,+Beil.1861 )

アメリカ、フランス、イギリスの総領事たちも、安藤と話す機会を得るたびにオイレンブルクの要請を取り次ごうとした。オイレンブルクは彼らから交渉の戦略について貴重なアドバイスを受けたり、日本が新たな国と条約を結んだ場合には、スイスおよびベルギーとも即座に条約を締結するという約束を英国領事が最近取りつけたといった有益な情報を入手していた。つまり日本がオイレンブルクに譲歩すれば、スイスやベルギーとも条約を結ぶことにつながり、それは当然ながら日本の利益にならないことを意味する。オイレンブルクの目から見ると、これで日本人が頑なに抵抗する説明が全てついた。それでも彼は落胆しなかった。

9月24日には外国奉行によって、安藤が10月4日にオイレンブルクとの会見に応じるという知らせがもたらされたが、この2度目の会見は結局10月2日に繰り上げられた。交渉は3時間に及び、両者はあらゆる交渉術を駆使して渡りあった。安藤は自らの立場を強調し、世論が変化したら即座に条約を締結すると書面で約束する以上のことはできないと述べた。安藤は、西欧列強との軋轢以上に国内の緊張の高まりを危険とみなしていることを説明した。オイレンブルクは安藤の言い分に心動かされなかった。



安藤対馬守の肖像
写真提供:安藤綾信氏

日本の決定的な拒絶を避けるため、オイレンブルクは疲労を言い訳に、協議の継続を前提として書面で回答すると約束した。安藤は協議の時間がないことを理由にこれをはねつけたが、オイレンブルクは「安藤が外交担当者としての義務から逃れることはできない」と指摘し、会見の継続をスマートに迫った。

プロイセン使節団にとって10月はひたすら待機の月だった。公式の報告書には、この時期に行われた数多くの行楽や活動が描写されている。10月15日、プロイセン使節団は、プロイセンの度量衡器コレクションを将軍への献上品として酒井と堀に委ねたが、これは大変恭しく受け取られた。その後の朝食の席で、アタッシェ(随行員)マックス・フォン・ブラントの名が話題になった。酒井と堀はすぐさま、件の人物が日本でも有名な戦術に関する著作の作者と縁戚にあるのか尋ね、マックス・フォン・ブラントが作者の息子であることを聞いて喜んだ。

この作品は、1833年に出版されたハインリッヒ・フォン・ブラント(1789-1868)の「Die Grundzüge der Taktik der drei Waffen [三兵戦術大綱 ]」を指す。これはまずオランダ語に翻訳され、日本語に重訳された。堀は12月4日に同作品の「三兵答古知幾」という和訳をマックス・フォン・ブラントに贈った。この贈呈本は現在もベルリン国立図書館が所蔵している。マックス・フォン・ブラントの旧所蔵品の詳細については、対応するリンク先のトピックポータルで確認できる。

別の日に行われた外国奉行との会見では、天球儀および地球儀が将軍への献上品として手渡された。酒井、堀の両名も訪問の都度、鉛筆や消しゴム、シャンパン、琥珀のビーズや刃物など、ちょっとしたプレゼントを貰っていた。



「Die Grundzüge der Taktik der drei Waffen. Infanterie, Kavallerie und Artillerie」標題紙 (Berlin: Herbig, 1842, 2. verb. u. verm. Aufl.)
出典:所蔵番号Hv 597-6,1a



「Die Grundzüge der Taktik der drei Waffen. Infanterie, Kavallerie und Artillerie」より各種ユニットの戦闘陣形を図式的に表現したもの
出典:所蔵番号Hv 597-6,1a, p. 85



和訳「三兵答古知幾」にも同じような図式表現がある
出典:所蔵番号Libri japon. 14, Vol. 4, p. 21r

10月12日の段階で、オイレンブルクはすでに新たな書簡を安藤に送っていた。彼はその中で、他の諸国との条約締結に支障はないとする日本がオランダに与えた内約の履行を主張した。日本側から見れば、その後のオランダとの条約を通じてこの内約は無効となっていたため、オイレンブルクの主張の根拠は弱かった。

だが数々の幸運な要素が最終的にプロイセンの大義を後押しした。たとえば西欧列強の代表たちは、オイレンブルクの要請に強く肩入れした。在長崎オランダ総領事は10月末、安藤に緊急の書簡を送り、オランダと交わした内約を守るよう要求した。10月にはフランス、アメリカおよび英国の代表が安藤と会談を行った。日本は、国民がこれ以上動揺するのを避けるために、現行の条約に基づいて行われる予定だった開港を数年延期したいと要望を述べた。西欧諸国にしても、江戸の開港に問題があることは承知していたが、交渉での立場を弱めかねないこの件について、会談の席で賛意を示すことは不可能だった。だがイギリス総領事オールコックとの会談で、ついに安藤の口から、西欧列強が開港の延期に同意するなら見返りにプロイセンとの条約を検討するという提案が行われた。当然ながらオールコックはこれに応じず、列強諸国との取引なしでプロイセンと条約を締結するよう迫ったが、それでもこれは交渉における突破口となった



横浜の泥酔した船乗り
出典: 歌川貞秀, 横浜文庫. S.l.: s.a., Bd. 1, p. 11v, 12r (所蔵番号 39085 ROA)

これと同時期、諸外国の商人、水兵や兵士たちの無作法な態度が現地当局との間で問題となっていた。日本の住民に対する侮辱、暴行、横柄な振る舞い —とりわけ飲酒の上で— は珍しいことではなかった。外国人は領事館の管轄下に置かれており、その犯罪に対して度々下される甘い処分は結果的に外交官と幕府間の緊張をもたらした。これは互いの法的見解と法的慣行が大抵の場合で一致しなかったことにある。なかでも将軍にしか許されていない首都・江戸近辺における狩猟禁止令の軽視は数々の紛争の原因となった。



徳川家の家紋
出典: 嘉永武鑑. S.l., 嘉永6年 [1853], 1rの前頁, 頁数なし  (所蔵番号Libri japon. 22-1)

安藤が10月12日付のオイレンブルクの書簡に回答をよこしたのは、1ヶ月後の11月半ばのことだった。安藤は現在の状況で条約を締結するのは不可能であるとの立場を崩さず、後日条約を締結するという念書の作成をもちかけた。オイレンブルクも一歩も譲らず、プロイセンに他国と同等の地位を与えるよう回答したため、こう着状態はさらに続いた。

11月初旬、外国奉行の酒井隠岐守が勘定奉行に叙任された。酒井の後任となった溝口讃岐守(1807-没年不詳、溝口直清)は11月13日、堀の同行でプロイセン使節に謁見したが、その直後、他の役目を担うこととなった。そのため 12月4日、将軍から摂政を務めるプロイセン皇太子への献上品である紅白の絹10箱と繊細な細工を施した火鉢2点は、単身の堀によって届けられた。オイレンブルクにもブロンズと漆で出来た工芸品が贈られ、彼はその返礼として琥珀細工を進呈した。またこの場ではプロイセン皇太子からのさらなる贈呈品が手渡された。それは将軍家である徳川家の家紋(葵巴・三つ葉葵)を押印するための印章印刷機だった。その場に同席していた植物学者ヴィフーラの質問で、この紋章に描かれている植物が三つ葉の双葉葵(ラテン語名 Asarum caulescens Maxim)であることが明らかになった。日本研究者の元来の記述では、紋章の図案となった植物として他の様々な植物が挙げられていた。



マックス・ヴィフーラの肖像
出典: Max Wichura. Aus vier Welttheilen : ein Reise-Tagebuch in Briefen. Breslau: Morgenstern, 1868, 頁数なし (所蔵番号 Un 5270a)

オイレンブルク、堀、ヴィフーラの会談の席で、両サイドは相手の国の事情をより深く知ろうとした。そのため話題はサボテンから学校制度、はては郵便制度まで多岐にわたり、軍事や軍備、海運業は繰り返し話題に上った。言葉の知識が足りない部分は紙に描いて補った。相手への関心は互いに旺盛だった。

12月3日、使節団の最後の1隻輸送船エルベ号がヴェルナー中尉指揮の下、ようやく日本に到着した。悪条件の重なる中、エルベ号はシンガポールを遅れて出発し、香港、フォルモサ(現台湾)、長崎を経由して最終的に横浜に着いた。商務顧問官のヴォルフはすでに香港で使節団と別れ、商品見本を手に上海へと向かっていた。商人のヤーコプは香港から英国の蒸気船に乗り込み、プロイセンの艦隊が横浜を離れる直前になってやっと姿を現した。

条約

条約の締結と離日

12月初旬、こう着状態に陥っていた交渉でプロイセンにようやく光明が差し込んだ。日本は、海外貿易に向け間近に迫ったさらなる開港を何としても遅らせたいと考え、将軍と協議の結果、最終的に譲歩することを決断した。12月6日に行われた米ハリス総領事との会談で、安藤はプロイセンとの(ひいてはベルギーやスイスとも)条約交渉に入ることを告げた。その見返りとしての条件は、日本が望んでいる開港の延期が好意的に検討されること、またこれ以上の条約締結は望まないという日本の声明を締約国が拡散することだった。当初、安藤はプロイセンとの条約に追加条件を盛り込もうとしたが、ハリスがプロイセンのために尽力した結果、安藤はそれまでの範例に基づいた契約で合意した。日本側が得た唯一の譲歩は,条約の発効は批准書を取り交わした後になるという点であり,これは時間的な猶予を意味していた。他の西欧諸国が開港に関して譲歩したおかげでようやく達成されたこの成果は、プロイセンにとって後味の悪いものだった。だがその一方で待機と忍耐を重ねた結果、任務が不首尾に終わらずすんだことに、オイレンブルクは当然ながら大きく安堵していた。

したがって使節団のムードは非常に明るかった。12月15日、一行は千束の寺社地区へ遠出して成功を祝い、オイレンブルクはハリス米総領事と神奈川領事のE.M.ドールを朝食に招待した。

プロイセン使節団のメンバーは、12月を江戸とその近郊への小旅行や買い物に費やした。長崎在留のオランダ総領事デ・ウィットのような西欧諸国からのゲストも、オイレンブルクのもとへ表敬訪問にやってきた。さらにこの時間を利用して、プロイセンの船舶による江戸湾周辺の水路調査も行われた。賑やかなクリスマスパーティも楽しいムードに一役買った。



図の説明書き:センゾコ(ママ)の神社
出典: [Berg, Albert (Hg.)]. Ansichten aus Japan, China und Siam. Berlin, Verlag der Kgl. Geheimen Ober-Hofbuchdruckerei, 1864, 図7 (所蔵番号2″ Libri impr. rari 617)

オイレンブルクが誰のために交渉する気かを日本側が知ったのは、12月13日に行われた委任状の交換の場だったため、実際に条約の交渉が始まるまでにはさらに時間がかかった。オイレンブルクの使命は、ドイツ北部地域のために条約を締結することだった。その意図は、プロイセンが関税同盟諸国およびハンザ同盟諸都市と貿易政策を一とする連合体を形成することにあった。この要請を明確にするため、適切な地図が用意され、プロイセン、関税同盟諸国、メクレンブルク両大公国そしてハンザ同盟諸都市を含むオランダ語による条約草案が作成された。日本側の交渉役を務めた外国奉行の堀、目付役の黒川左中(生没年不詳)、そして新たに任命された竹本図書頭(竹本甲斐守 (竹本正雅)1825-1868)がこのことを知った時、打ちのめされたとは言わないまでも、これほど多くの領邦と一度に条約を結ばねばならないという事実に驚愕した。

そしてこれが堀とプロイセン側の最後の面談となった。堀はこの直後に切腹して果てた。その正確な原因は今も定かではないが、一般的にはプロイセン使節団との交渉が一因だと考えられている。オイレンブルクはプロイセンのみならず、他の多数の諸国のために交渉していた。 最初からそれを把握していなかったという重大な過ちに、堀は責任を感じていたと推測される。 プロイセン使節団は当初、堀は体調を崩したため協議に参加できないと聞かされていた。堀の死がプロイセンに知らされたのは1月に入ってからだったが、当時すでに自害の噂が流れていたにも関わらず、幕府は相変わらず堀は病死したと主張した。



江戸湾
出典: Gustav Spieß. Die preußische Expedition nach Ostasien während der Jahre 1860-62. Berlin [u.a.]: Spamer, 1864, p. 131 (所蔵番号 Un 5276a)

交渉は12月22日に再開された。堀の代わりを務めたのは、アメリカ遠征から帰国したばかりの村垣淡路守 (村垣範正, 1813-1880)だった。村垣は地図をもとに、オイレンブルクがどの国のために交渉する気なのか、なぜプロイセンがこれらの国のために交渉する権利を持っているのかを詳しく説明することができた。それでもなお日本側はだまし討ちにあったと感じていた。村垣は「これだけ多くの国と同時に条約を結ぶことは不可能だ」と説明した。北ドイツ諸国と個別に交渉する手間の代わりに一つの条約で事足りるし、来日する外交官も一人ですむなど、オイレンブルクはこの方法の長所を示そうと努力した。事実、これらの諸国のうち海上貿易に従事しているのはわずか5国で、日本に寄港するであろう船舶数も非常に限られていた。だがオイレンブルクの努力は空振りに終わった。関税や貿易同盟の意味は日本に通じなかった。

12月24日、オイレンブルクは安藤と再び会談した。プロイセン使節団は交渉を関税同盟まで広げることに全力を注ぎ、同盟について説明するためこれら諸国の硬貨も持ち出したが、安藤はこれ以上譲ろうとはしなかった。将軍はプロイセン一国との交渉にのみ同意を与えていた。すでに日本に滞在していたドイツ人商人を対象とする妥協案だけは合意されていた。オイレンブルクが条約批准および外交官派遣の遅延で手を打つ見返りとして、安藤も滞日中のプロイセン出身の商人を一時的に黙認することに同意したからである。プロイセン以外のドイツ人商人に関しては、商売を畳むのに少なくとも少し長めの猶予が与えられることになった。12月28日になってようやく、実際に条約交渉が始まった。既存の条約モデルを踏襲したことで特筆すべき問題は起こらず、12月30日に行われた2度目の会談ですでに条約内容の合意が形成された。貿易規制は個別に交渉することとなった。



図の説明書き:フォン・イムホフ中尉の指揮の下、江戸赤羽のプロイセン公使館を守備するプロイセンの海兵隊、A.ザハトラーの写真に基づく絵
出典: Illustrirte [sic] Zeitung. Leipzig, 933 (18. Mai 1861), p. 336 (所蔵番号 2″ Ac 7169-36/37=914/965,+Beil.1861 )

プロイセン使節団の1860年の年越しは、ちょっとしたハプニングの連続に見舞われたが、結局すべてが丸くおさまった。12月30日に台所で起きた火事は素早く消し止められ、被害は最小限におさまった。そして大晦日の午後には小さな地震が起きたが大した影響はなく、人々はゲームや歌を楽しみ大いに笑って新年の朝を迎えた。元旦は不吉な知らせで幕を開けた。通訳のヒュースケンがやって来て、600人の浪人が横浜と江戸に住む外国人の襲撃を企てていると幕府が知ったと告げたのである。その結果、幕府はプロイセンの宿舎近辺の警備対策を大幅に強化した。赤羽の海兵隊も増員され、プロイセンの軍艦は、必要に応じて公使館を援護する準備体制を敷いた。

危険がどれほど差し迫っているかについては、外交官たちの意見にも温度差が見られた。幕府が講じた措置は、外交官を畏縮させて一見「安全」そうな場所に移す試みであり、これは監視と移動の自由を制限するものだと考える人々も一部にいた。その他の外交官たちは、日本の官僚たちの懸念は本物で脅威も現実だと捉えていた。プロイセンも一時的に活動を縮小したが、結局襲撃は起こらなかったため通常どおりの生活を再開した。



こんにちの港区中ノ橋
画像提供: SBB-PK/Ursula Flache、2011年2月17日撮影

1月3日、貿易条項の打ち合わせを再開するために交渉の責任者が集まった。いつ協定が発効するかという問題だけが目下の難点だった。日本側は自国の情勢を落ち着かせるために批准を遅らせることに力を注ぎ、けっきょく何度かの交渉の末、条約は批准書交換後の1863年1月1日から効力を持つということで合意した。そして1月8日までにはオランダ語に訳された条約文書の仔細な内容についての合意ができた。

険悪な年始めから日が経つにつれ、雰囲気は目に見えて和らいだ。通訳のヒュースケンは、プロイセンや他国の公使館の職員たちとのにぎやかな夕食会にたびたび参加した。1月15日に改まって献上する予定の将軍への最後の献上品が手配された。その中には、等身大のプロイセン皇太子の肖像画や電信機もあった。将軍への献上の前日、プロイセンは他国の代表たちを朝食に招待した。ヒュースケンと森山によって作成されたオランダ語の条約文書は真っ当な評価を得た。上機嫌の一行は好天のもと乗馬に出かけ、ヒュースケンはプロイセンの宿舎でその晩を過ごした。

1月15日に計画されていたとおり、献上品が日本の交渉責任者たちに披露された。ところがここで約束に反して、翻訳のトラブルにより条約の和訳文書が未完成であることが明らかになった。しかし献上品が粛々と受け取られ、この機会に乗じてオランダ語の文言を変更させようとした日本側の企てをオイレンブルクがすげなく断ったことで、条約への署名を妨げるものは何もないとプロイセンは確信していた。通訳としての入念な仕事ぶりだけでなく、すでに仲間だとみなされていたヒュースケンは、いつものようにプロイセン使節団のメンバーと夜を過ごした。



ヒュースケンの葬列
出典: Gustav Spieß. Die preußische Expedition nach Ostasien während der Jahre 1860-62. Berlin [u.a.]: Spamer, 1864, p. 208-209間の挿画 (所蔵番号Un 5276)

徒歩20分ほどの距離にあったアメリカ公使館の宿泊施設、善福寺への帰り道でヒュースケンと日本人の侍者は襲撃にあった。ヒュースケンの傷は深く、呼び出されたルーチウス医学博士の手当の甲斐なくその夜のうちに死亡した。アメリカ総領事ハリスの悲しみは深かった。数日後に29歳の誕生日を迎えるはずだったヒュースケンは、ハリスにとって息子のような存在だった。プロイセン使節団のメンバーにとっても、ヒュースケンの死は大きな衝撃だった。幕府は凶行を捜査することを約束し、ヒュースケンの親族に1万ドルの弔慰金を支払った。しかし下手人が責任を問われることはついになかった。現在、襲撃場所そばの中ノ橋には小さな説明版が付けられ、事件のあらましを伝えている(中ノ橋: 港区東麻布2-30)。

1月18日のヒュースケンの告別式は葬列が再び襲撃されることを怖れ、厳重な警備体制のもとで執り行われた。外国人を警護するため、葬列には5人の外国奉行が馬に乗って同行した。幸いなことに葬儀は滞りなく進んだ。ヒュースケンの墓は、現在も港区の光林寺 (光林寺、南麻布4-11-25)に残っている。墓石には以下の碑文が刻まれている。

ヘンリー・ヒュースケンの霊に捧げる
在日アメリカ総領事館通訳
1832年1月20日アムステルダム生
1861年1月16日江戸没

ヒュースケンの墓のそばにはイギリス総領事に仕えていた日本人の通訳者、伝吉(生年不詳-1860)の墓がある。伝吉はヒュースケンの死を遡ること1年、1860年1月に殺害された。伝吉の墓碑銘には「日本人の暗殺者(Japanese assassins)」との言葉も彫られているが、ハリスはヒュースケンの墓のために中立的な銘文を選んだ。夜間に外国人が外出することの危険を誰もが知っていた以上、ハリスはヒュースケン本人にも死の責任の一端を負わせた。

だがヒュースケンの死は、プロイセン人に事態の深刻さをはっきりと悟らせた。江戸に滞在していたイギリス、フランスおよびオランダの公使たちは、一時的に首都を離れて横浜に避難した。幕府から全幅の信頼を寄せられていたハリスと、条約の締結を危うくしたくないオイレンブルクだけが引き続き江戸にとどまった。予防策として使節団メンバーは武器を携帯して集団でのみ外出することにした。



光林寺にあるヒュースケンの墓
画像提供: SBB-PK/Ursula Flache、2011年2月17日撮影



ヒュースケンの墓碑銘
画像提供: SBB-PK/Ursula Flache、2011年2月17日撮影



光林寺にある伝吉の墓
画像提供: SBB-PK/Ursula Flache、2011年2月17日撮影

1月23日、交渉代理人が日本語の条約清書が完成したことを明らかにした。オイレンブルクもすでに準備を整え、安藤と合意したとおりに契約の批准と外交官の派遣を遅らせるよう政府に働きかける誓約書を用意していた。だが日本側の対価だったはずの、プロイセン人商人の一時的な黙認とプロイセン以外のドイツ人商人に商売を畳むための時間的猶予を与えるという約束の書面が提示されなかっため、オイレンブルクはひとまず条約の調印に応じなかった。翌日まずこの誓約が取り交わされ、赤羽のプロイセン公使館にて条約への調印が厳かに行われた。条約の原本はドイツ語で4枚、オランダ語で2枚、そして日本語が4枚になった。

「調印には長い時間を要した。条約の他に個別に署名せねばならない貿易条項があり、そのため各国の代理人が20度ずつ名前を書かねばならなかったからである。こういう場合に時間をかけて芸術的に筆を運び、名を大書する日本人にとって、これは決して容易なことではなかった。」 ([Berg, Albert (Hg.)]. Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1866, Bd. 2, p. 162)



右:  条約原本(右から)村垣、竹本、黒川、オイレンブルクの署名
左: 1862年にプロイセンを訪問した日本公使館からの信任状
出典: bpk / Geheimes Staatsarchiv, SPK / Joachim Kirchmair Geheimes Staatsarchiv, Inventar-Nr.: II Nr. S 5102

最後に再び贈答品が交換された。将軍はオイレンブルクと使節団の高官たちに高価な金襴緞子を贈らせた。日本の代理人と通訳の森山は、オイレンブルクらからオペラグラスや時計、琥珀の飾り紐などを受け取った。琥珀の飾り紐はとりわけ喜ばれた。日本の役人たちが辞去してから、使節団の一行は昼食の席で条約の締結を祝ったが、ヒュースケンの死のために思ったほど盛り上がらなかった。また関税同盟およびハンザ同盟都市との包括的な条約を結ぶという目的が果たされなかったことを、オイレンブルクは敗北と受け取った。しかし少なくとも条約発効までの日本滞在中のプロイセン人およびその他のドイツ人の立場は保証された。

オイレンブルクと将軍の直々の会見は一度も実現しなかった。将軍の謁見用の大広間が火災の後再建されていないという口実を盾に、オイレンブルクは最後まで将軍への謁見が許されず、自分の信任状とプロイセン皇太子の親書を手渡すことはかなわなかった。だが将軍はその一方でイギリスおよびフランスと条約批准書を交換するため、同国の公使たちを仮設広間での会見に招いていた。



絵の説明文:1月25日、江戸におけるプロイセン・日本修好通商条約の署名。W[ilhelm] Heine による素描
出典: Illustrirte [sic] Zeitung. Leipzig, 935 (1. Juni 1861), p. 372 (所蔵番号2″ Ac 7169-36/37=914/965, + Beil. 1861)



交渉に参加した代表らの肖像(アウグスト・ザハトラーの写真に基づく)
左から村垣淡路守、竹本図書頭、黒川左中、森山多吉郎(原文のキャプションでは以下の黒川と森山の名前が入れ替わっている。以下の図像説明を参照のこと。p. 369図 VII-41、 Dobson, Sebastian und Sven Saaler (Hg.). Unter den Augen des Preußen-Adlers : Lithographien, Zeichnungen und Photographien der Teilnehmer der Eulenburg-Expedition in Japan, 1860-61)
出典: Illustrirte [sic] Zeitung. Leipzig, 935 (1. Juni 1861), p. 373 (所蔵番号2″ Ac 7169-36/37=914/965, + Beil. 1861)



長崎の市街地と港を望む
出典:  [Berg, Albert (Hg.)]. Ansichten aus Japan, China und Siam. Berlin, Verlag der Kgl. Geheimen Ober-Hofbuchdruckerei, 1864 (所蔵番号2″ Libri impr. rari 617), 図25

使節団の離日を妨げるものは、もはや何もなかった。1月27日、日本側の代理人が再び姿を見せ、将軍からプロイセン皇太子への贈答品を手渡した。その中には漆塗りの箪笥や豪華な刀剣が含まれていた。プロイセンはアメリカ総領事ハリスとの送別の席を設け、最後の別れにヒュースケンの墓を訪れた。午後になると外国奉行の鳥居越前守(生没年不詳)が正式な別れの挨拶にやってきた。雪の舞い散る強風の中、使節団は再び船に乗りこんだ。

オイレンブルクは家族に宛てた手紙に寛いだ調子でこう記した。「快適さを意味するものを全て欠いた5ヶ月の後で、暖かい絨毯とクッションつきの椅子が備わった暖かく心地よい船室にいることがどれほど快適であるかは、説明のしようがありません。同時に私の心は穏やかです。おそらく任務の一番困難な部分を乗り越えたので、緊張で張り詰めていた神経をようやく緩められます」 (Eulenburg, Fritz. Ost-Asien 1860 – 1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preußischen Gesandten, betraut mit außerordentlicher Mission nach China, Japan und Siam. Berlin, Mittler, 1900, p. 162)

1月29日、オイレンブルクはアルコナ号に乗って江戸を後にした。横浜に束の間寄港し、オイレンブルクがヨーロッパの使節や領事のための別れの宴を船上で開いた後の1月31日、船は長崎へ向けて出航した。長崎への旅路は悪天候に見舞われ、非常に不愉快なものだった。2月17日、ようやく長崎港にたどり着いた彼らは、研究のため12月末に来崎していた植物学者のヴィフーラと再会した



フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの肖像
出典: bpk / J.シャーフガンス撮影写真(1859)に基づく木版画(1860頃)

外交交渉の重荷から解放された使節団メンバーは、長崎滞在の一週間を買い物や観光、社交に明け暮れて過ごした。「滞在中、次から次へとパーティが押し寄せ、もてなしは尽きることがなかった。どの家でも真夜中まで乾杯するグラスの音が鳴り止まない真のパイアケス人の生活が営まれていた。」([Berg, Albert (Hg.)]. Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1866, Bd. 2, p. 189) 長崎の手工芸品は江戸の品々には及ばなかった。プロイセン人の目には多くの品が無骨に映り、 ヨーロッパへの輸出専用に作られた商品に見えた━それでも購買欲は刺激された。「長い船旅が我々の交渉欲を研ぎ澄まし、その結果、船長たちが唖然とするほどの数の箱が甲板に積み上げられた。軍艦には全く場所に余裕がないからだ」([Berg, Albert (Hg.)]. Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1866, Bd. 2, p. 192)

オイレンブルクのもとを訪れた多くの人の中には、長崎近郊の館に住んでいた日本研究者として名高いフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年-1866年)の名もあった。オイレンブルクは、彼との出会いを家族に宛てた手紙の中で次のように記している。「彼(シーボルト)からは、ヨーロッパへ一生戻らないのだろうという印象を受けた。彼は日本と日本人に惚れ込んでおり、ここで自分の仕事を成し遂げたいと思っている」(Eulenburg, Fritz. Ost-Asien 1860 – 1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preußischen Gesandten, betraut mit außerordentlicher Mission nach China, Japan und Siam, Berlin, Mittler, 1900, p. 176) 長崎で楽しい日々を過ごした後、プロイセン使節団が日本を去る日がやってきた。2月14日、アルコナ号とテティス号は上海へ向けて出港した。船団の3隻目の船エルベ号は、条約締結に成功したという知らせの通知を一刻も早くヨーロッパ方面へもたらすため、一足早くすでに江戸から上海に向けて出航していた。

最後に快く画像の使用許可をくださった下田開国博物館および安藤綾信様に深く御礼申し上げます。

参考文献


同時代人の証言

::: [Berg, Albert (Hg.)]. Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin Verlag der Kgl. Geheimen Ober-Hofbuchdruckerei, 1864-1873, 4 vols.

::: [Berg, Albert (Hg.)]. Ansichten aus Japan, China und Siam. Berlin: Verlag der Kgl. Geheimen Ober-Hofbuchdruckerei, 1864

::: Brandt, Max von. Dreiunddreissig Jahre in Ost-Asien. Erinnerungen eines deutschen Diplomaten ; in drei Bänden. Leipzig: Wigand, 1901 (Vol. 1: Die preussische Expedition nach Ost-Asien : Japan, China, Siam, 1860-1862 ; zurück nach Japan, 1862)

::: Eulenburg, Friedrich zu. Ost-Asien 1860 – 1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preußischen Gesandten, betraut mit außerordentlicher Mission nach China, Japan und Siam / Hg. von Philipp zu Eulenburg-Hertefeld. Berlin: Mittler, 1900

::: Freitag, Adolf. Japan und die Japaner im Schrifttum der Preussischen Expedition von 1860/62 nach Ostasien. Tokyo: Deutsche Gesellschaft für Natur- u. Völkerkunde Ostasiens; Leipzig: Harrassowitz in Komm., 1942 (Mitteilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens ; 33, D) [Reprint: New York : Johnson, 1965]

::: Heine, Wilhelm. Eine Weltreise um die nördliche Hemisphäre in Verbindung mit der Ostasiatischen Expedition in den Jahren 1860 und 1861. Leipzig: Brockhaus, 1864, 2 vols.

::: Heusken, Henry. Japan journal 1855-1861. Transl. and ed. by Jeannette C. van der Corput and Robert A. Wilson. New Brunswick: Rutgers Univ. Pr., 1964

::: ヒュースケン・ヘンリー [Heusken, Henry]、 青木枝朗訳 「日本日記」 東京 : 校倉書房, 1971

::: Kreyher, Johannes. Die preußische Expedition nach Ostasien in den Jahren 1859 – 1862. Reisebilder aus Japan, China und Siam. Aus dem Tagebuche von J. Kreyher, ehemal. Schiffsprediger an Bord S.M.S. “Arcona”. Hamburg: Agentur des Rauhen Hauses, 1863

::: Maron, Hermann. Japan und China. Reiseskizzen entworfen während der Preussischen Expedition nach Ost-Asien. Berlin: Janke, 1863

::: Ein Matrosen-Tagebuch. In: Marine-Rundschau, 21.1910, pp. 1184-1192

::: Richthofen, Ferdinand von. Ferdinand von Richthofens Aufenthalt in Japan. Aus seinen Tagebüchern. In: Mitteilungen des Ferdinand-von-Richthofen-Tages 1912. Berlin: Reimer, 1912, pp. 19-185

::: Spieß. Gustav. Die preußische Expedition nach Ostasien während der Jahre 1860-62. Berlin: Spamer, 1864

::: Stahnke, Holmer (Hg.). Preußens Weg nach Japan. Japan in den Berichten von Mitgliedern der preußischen Ostasienexpedition 1860-61. München: Iudicium, 2000

::: Werner, Reinhold. Die preußische Expedition nach China, Japan und Siam in den Jahren 1860, 1861 und 1862. Reisebriefe. Leipzig: Brockhaus, 1863

::: Wichura, Max. Aus vier Welttheilen [sic]. Ein Reise-Tagebuch in Briefen. Breslau: Morgenstern, 1868

二次資料

::: Dobson, Sebastian. “Photography and the Prussian Expedition to Japan, 1860-61“, in: History of Photography, 33.2009, 2, pp.112-131

::: Dobson, Sebastian und Sven Saaler (Hg.). Unter den Augen des Preußen-Adlers : Lithographien, Zeichnungen und Photographien der Teilnehmer der Eulenburg-Expedition in Japan, 1860-61 = Under eagle eyes : lithographs, drawings & photographs from the Prussian expedition to Japan, 1860-61 = プロイセン・ドイツが観た幕末日本 : オイレンブルク遠征団が残した版画、素描、写真. München: Iudicium, 2011 [同書誌p.373-389には広範な参考文献が掲載されており、プロイセン文化財枢密文書館所蔵文書のような未刊行文献や、同時代の報告書名もリストアップされている]

::: Hesselink, Reinier H. “The assassination of Henry Heusken”, in: Monumenta Nipponica, 49.1994, 3, pp. 331-351

::: Krebs, Gerhard (Hg.). Japan und Preußen. München: Iudicium, 2002

::: Martin, Bernd. „Die preußische Ostasienexpedition und der Vertrag über Freundschaft, Handel und Schiffahrt mit Japan (24. Januar 1861)“, in: Krebs, Gerhard (Hg.). Japan und Preußen. München: Iudicium, 2002, pp. 77-101

::: Orth. E. „Die preussische Expedition nach Japan 1860-1861“, in: Mitteilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens, 13.1910, pp. 199-236

::: Richter, (Julius Wilhelm) Otto. Die preußische Expedition in Japan (1860 – 1861). Altenburg: Geibel, 1908

::: Salewski, Michael. „Die preußische Expedition nach Japan (1959-1861)“, in: Revue Internationale d’Histoire Militaire, 70.1988, pp. 39-57

佐藤林平「Heuskenの死をめぐって-1-」[Der Tod von Heusken -1-] 慶応義塾大学日吉紀要英語英米文学, (通号 9) 1988, pp. 88-114

佐藤林平「Heuskenの死をめぐって-2-」[Der Tod von Heusken -2-] 慶応義塾大学日吉紀要英語英米文学, (通号 10) 1988, pp. 85-131

佐藤林平「Heuskenの死をめぐって(補遺) 」[Der Tod von Heusken (Ergänzung)] 慶応義塾大学日吉紀要英語英米文学, (通号 12) 1989, pp. 149-162

::: Schmiedel, Otto. Die Deutschen in Japan. München: Kuhn ; [Leipzig : Koehler], 1920

::: Schwalbe, Hans und Heinrich Seemann (Hg.). Deutsche Botschafter in Japan 1860-1973. Tokyo: Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens, 1974 (Mitteilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens; 57)

::: Stahnke, Holmer. Die diplomatischen Beziehungen zwischen Deutschland und Japan 1854-1868. Stuttgart: Steiner, 1987