ベルリン国立図書館所蔵日本コレクションのあけぼの

図書館の創設者であるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620-1688)は、東アジアに対して並々ならぬ興味を抱いていた。選帝侯の支援によって、大量の中国書籍が17世紀の間に当時の宮廷図書館へもたらされた。いっぽう1630年代から 米国マシュー・ペリー提督 (1794-1858) の圧力を受け開国に至る1853年まで鎖国政策を取っていた日本から書籍を入手することは、非常に限られた範囲にとどまっていた。19世紀までに同図書館に収蔵された日本の作品はわずか4点にとどまり、うち2点は現在も保管されている。「フローラ・ヤパニカ」(„Flora Japanica“、登録番号 Libri pict. 40, 41)は、1360点の植物および数点の鳥類が描かれた絵巻を分割して一枚絵の形に仕立てたもので、オランダ東インド会社日本支社長だったアンドレアス・クレイエル(1634-1697)が1685年に作らせたものである。選帝侯の専属医で、植物学者かつ中国学者でもあったクリスティアン・メンツェル(1634-1697)の遺産から出たと思しき、薬草と医薬についての最も重要な中国語書物のひとつ、「本草綱目」(„Bencao gangmu“、登録番号 Libri sin. 102/107)の日本語版は1702年に図書館に託された。その結果、ベルリン国立図書館(Staatsbibliothek zu Berlin-PK (通称SBB-PK))の日本コレクションの起源は、プロイセン王国と日本の外交関係の始まりと時を同じくすることとなった。1860年の夏、フリードリッヒ・ツー・オイレンブルク伯爵(1815-1881)率いるプロイセン王国使節団は、日本、中国、シャム(現タイ)各国との修好通商航海条約を締結するため旅立った。粘り強い交渉の末、1861年1月24日 に日本との条約が締結された。プロイセン遠征に関する詳細は、リンク先のトピックポータルをご覧ください。

ベルリン国立図書館(SBB-PK)東アジア部が所蔵する日本古典籍コレクションは、2021年の時点でおよそ1000点にのぼる。そのうち約100点は1860〜1861年のプロイセン使節団遠征で入手された品々である。およそ3分の2が使節団に参加した個人の蒐集品、残り3分の1はすべて「プロイセン使節団」あるいは「日本遠征」という分類で受入台帳に記されている。コレクションには使節団代表を務めたフリードリッヒ・ツー・オイレンブルク伯爵のほか、アタッシェ(随行員)のマックス・フォン・ブラント(1835-1920)、地理学者のフェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵(1833-1905)、医師のロベルト・ルーチウス・フォン・バルハウゼン男爵(1835-1914)ら3名の蒐集品が含まれている。オイレンブルク、ブラントおよびリヒトホーフェンの蒐集品は19世紀の遠征後、比較的早い時期に当時の王立図書館の所蔵となったが、バルハウゼンのコレクションは1963年に彼の遺産から購入されたものである。

所蔵数
タイトル総数 105点
電子化タイトル 103点(2021年12月時点)

コレクションの所蔵番号
Libri japon. の一部
バルハウゼンコレクション: 37601 ROA – 37650 ROA

検索
東アジア部OPAC (キーワード: Expedition / Eulenburg / Brandt / Richthofen / Ballhausen)
デジタルコレクション (タイトルまたは所蔵番号で検索)

紙媒体のカタログ
Kraft, Eva (Hg.). Japanische Handschriften und traditionelle Drucke aus der Zeit vor 1868 im Besitz der Stiftung Preußischer Kulturbesitz Berlin. Staatsbibliothek und Staatliche Museen: Kunstbibliothek mit Lipperheidischer Kostümbibliothek, Museum für Ostasiatische Kunst, Museum für Völkerkunde. Wiesbaden: Steiner, 1982  (Verzeichnis der orientalischen Handschriften in Deutschland ; XXVII,1)
所蔵番号: OLS Ba OA ja 802-1

購入(買付け)

日本における買付け

使節団の出発に向けた準備のさなか、宮中顧問官の地位にあった王立図書館上級司書、ゲオルク・ハインリヒ・ペルツ(1795-1873)も遠征について所見を述べた。ペルツは大臣アウグスト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク(1795-1877)に宛てた1859年12月14日付の書簡で、日本およびシャムで現地の品を買い付ける際に王立図書館のための品も手配するよう、使節団メンバーへの指示を要請した。希望する品目についてペルツは以下のように記している。

「……歴史書や地理関係の著作、挿絵のついた自然史の著作 、人文学書や大衆作品、神学、法律の主要作品、日本およびシャムの国や地方の携帯地図、都市の眺望図と計画図……」(Geheimes Staatsarchiv – PK(プロイセン文化財枢密文書館), Berlin, Akte I. HA. Rep. 76 Kultusministerium Vc. Sekt. 1 Tit. XI Teil V A Nr. 2 Bd. 1, p. 207)

希望する品目に中国の品が挙げられていないのは、王立図書館における中国コレクションがこの時点で相当数に達していたためと思われる。

王立科学アカデミーはペルツの願いを聞き入れ、大臣フォン・ベートマン・ホルヴェーク(1795-1877)に宛てた1860年2月5日付の手紙の補足にこう記した。

「王立科学アカデミーは科学の名の下に、遠征隊参加者がプロイセンの王室コレクション、とりわけ王立図書館に対する配慮を要請する。 1、シャムにおいては……(中略) 2、日本においては歴史、地理、自然史、そして神学、詩学、法律関係の書籍を、なかでも国史類および地図類を手配すること」(Geheimes Staatsarchiv – PK, Berlin, Akte I. HA. Rep. 76 Kultusministerium Vc. Sekt. 1 Tit. XI Teil V A Nr. 2 Bd. 1, p. 244)

使節団は王立図書館からの要望にこたえ、銀貨452ターラー3グロッシェン10ペニヒを書籍や地図、写本の購入に費やした。ところが1862年の決算の段階で、購入予算が組みこまれていなかったことが明るみに出る。最終的にこの穴を埋めるため、同費用は「一般国家予算」から捻出され、王立図書館の予算に計上された(Geheimes Staatsarchiv – PK, Berlin, Akte I. HA. Rep. 76 Kultusministerium Vc. Sekt. 1 Tit. XI Teil V A Nr. 2 Bd. 2, p. 101-102)



王立図書館司書ゲオルク・ハインリヒ・ペルツの肖像(1870年頃)
出典:bpk / Ernst Milster



異人本町にて塗物を買入之図
出典:歌川貞秀, 横浜文庫, 巻1, p. 5v-6r, 所蔵番号39085 ROA

実際の契約交渉はインターバルを置いて行われたため、それによって生じた空き時間を他の活動で埋める必要に迫られた遠征隊の一行にとって、日本で買い付けるための機会はごまんとあった。「遠征記」の中に記された遠征隊の毎日の予定表にも、「買い物」というトピックに関する内容が散見される。

「8時頃に商人の群れが現れ、何百もの大小さまざまな箱の中から、あらゆる種類の愛らしくて有用な小物を取り出してみせた。廊下や通路はひととき色鮮やかなバザールのようになり、売られている品は多種多様且つあまりにも魅力的で安価なため、どんな趣向の持ち主でも気に入った品を見つけることができ、皆の購買意欲が衰えることはなかった。」([Berg, Albert (Hg.)]. Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. [公式資料によるプロシアの東アジア遠征記] Berlin, 1864, Bd. 1, p. 269-270)

プロイセン人は太っ腹な客だった。「遠征記」の他の箇所には日本の本屋についての言及が見られる。

「午後には毎度のごとく遠足へ繰り出し、馬に乗れないほど天気が崩れた日には、こまごまとした買い物をすませたり、ご当地の商品を見たり、地元の住民と交流するため、近くの書店や雑貨屋、武器、金物、漆器の店を訪れた。」([Berg, Albert (Hg.)]. Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1864, Bd. 1, p. 270)

現在はドイツでも広く愛好されている俳句など日本の詩歌への情熱に関して、「遠征記」では全く触れられていない。彼らの日本の詩歌に対する評価はむしろ非常に低かった。

「これまでに翻訳された詩歌の見本に殆ど注目すべき箇所はない。彼らの詩歌の見解は我々の理解の範疇外にあり、しばしば珍妙で趣に欠ける。またその気質から見ても、日本人は詩的とはいえない上にその能力にも恵まれない民族であり、この方面で特筆すべき価値あるものは何も残していない。」([Berg, Albert (Hg.)] . Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1864, Bd. 1, p. 315)

これに対して日本文学のその他の部門や日本人が読書に傾ける情熱は、「遠征記」の中でも高く評価されている。

「……見張りに立つ兵士でさえ読書を嗜み、子どもや女性、少女たちが夢中で本を読みふける姿が見られる。彼らの小説や文学は、欧州の言語に翻訳する価値のある幅広い魅力に富んでいるにちがいない。歴史書や百科事典が豊富に出回り、自然、科学、芸術、工芸などの分野について書かれた無数の啓蒙的な書物は、人々の旺盛な好奇心を物語っている。」([Berg、Albert (Hg.)] . Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1864, Bd. 1, p. 314-315)

日本人が読書に傾ける情熱と書物の安さは、遠征の報告者に強い印象を与えた。

「読書はあらゆる階級の日本人にとって、主な余暇の過ごしかたのひとつである。日本語の書籍や漢籍だけでなく、地理・民族学・医学・戦術・兵器に関するヨーロッパの著作の翻訳書の並べられた書店があらゆる街角にあり、信じられないほど廉価な書籍は巨大な需要を背景としている。」([Berg、Albert (Hg.)] . Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1864, Bd. 1, p. 131)

これに従って「遠征記」の一節が書籍および美術商の詳細な描写に費やされている。

「書店や美術商の店舗の前には、今やヨクハマ(ママ)の異人たちがふんだんに素材を提供しているに違いない諧謔に満ちた鮮やかなデフォルメ画が掛けられ、その横には風景画、動物画、殺人事件やその他の風俗画、また豪奢な装具を身につけた美しい女性の絵が飾られている。絵を描くのは普遍的な趣味で、ほぼ全ての日本人が嗜んでいるようだ。すでに彼らの文字が手および目の鍛錬となる。文字をただ書くのではなく、美しく書くことが求められているため、彼らは若い頃からこの技芸に多くの時間を費やし精魂を傾けてきた。漢字を美しい筆致と均整で表現することは、日本および中国における教養の根幹であり、彼らの詩歌では意味と形式だけではなく、筆運びの流麗さもあわせて勘案される。我々が響きと押韻で耳に求めるものを彼らは目に求め、欧州人が朗々とした詩歌の朗読に喝采を送るように、彼らは書の名人芸に熱狂するのだ。目および手の修養は教育の重要な部分であり、日本人が生まれつき持つ活気および認識力と並んで、絵を描くことへの適性と愛着が少なからず貢献していることは間違いない。



異人遠馬走リ乗帰宅之図
出典:歌川貞秀, 横浜文庫, 巻1, p. 8v-9r, 所蔵番号39085 ROA

どの書店にも、おびただしい数の挿絵入りの作品や数百の単なる絵本が並べられている。 植物学、動物学、物理学、解剖学、戦術書の大多数は挿絵入りで、日本語で書かれた書籍もオランダ語からの翻訳書もある。さらに武器、馬、狩猟や漁業、園芸、農業、樹木栽培、建築、地震、天文学、気象学、国の公式暦、系図、小説、歴史書や歴史読本、神話、民族誌、考古学の著作まである。絵本には風景、日常生活や自然の光景が細かく描き込まれている。画譜や剣術、乗馬の教科書のほか、絵の入門書には基本的な形態の精密な見本画が幾何学的な線で描かれている。とりわけ鳥、魚、昆虫の絵は見事なものが多く、数多くの類聚がある。大半の絵本にはありとあらゆるものが登場し、矛盾する存在が野放図な具合に一枚の紙へ一緒くたに放り込まれているのを度々目にする。彼らの軽妙なユーモアが尽きることはない。また明らかに模写された写生帳としてのみ芸術的な意味あいを発揮するその他の書籍もあり、それらはおしなべて素晴らしいのだが、その中のいくつかはデッサンの大胆さと壮麗さに関して、ヨーロッパの美術学校がこれまでに達成した全てを凌駕している。その作品は全て、多くのデッサンミスがある場合でも驚くほど生気で溢れており、形の意味と特徴に対する彼らの認識と感覚を明白に示している。美の感性や理想的な観念が語られるのは偶像崇拝や神話的な一部の作品においてのみで、自然や日常生活の描写のほうがこの非常に即物的な民族にははるかに向いている。」([Berg、Albert (Hg.)] . Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1864, Bd. 1, p. 312-313)



書籍および浮世絵を扱う地本問屋、和泉屋市兵衛(右)と舛屋(左)
出典:秋里籬島, 東海道名所図会, 巻6, p. 74v-75r, 所蔵番号Libri japon. 6

王立図書館司書のペルツが入手することを強く望んでいた地図類は、「遠征記」の中でもその精密さゆえにとりわけ賞賛されている。

「どこの書店にも地図や地図帳が売られており、その中には全国各地の国産地図もあれば、ヨーロッパの作品を複製したものに日本の文字を添え、木版や石版印刷で再現したものもある。さらに非常に精密な都市図もあり、なかでも江戸の4フィート四方の正方形の地図は、我々が全ての旅の道筋を見つけ出すことができるほど明瞭かつ正確だった。」([Berg, Albert (Hg.)]. Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1864, Bd. 1, p. 314)

SBB-PKの日本コレクションは、一連の歴史的地図を原版および復刻版の形で所蔵している。その中には、医師ロベルト・ルーチウス・フォン・バルハウゼン男爵のコレクションだった江戸の市街地図、「御江戸大絵図」(所蔵番号37619 ROA)も含まれている。1フィート= 30cmで換算した場合、寸法が122.5 x 135 cmのこの地図は、上記の報告書に出てくる都市図とほぼ同サイズである。

 



「御江戸大絵図」より、不忍池および弁天島(東京都上野区)部分の接写。隣接する寺院は寛永寺で、かつて境内だった場所には現在東京国立博物館が建っている。
出典:「御江戸大絵図」, 所蔵番号37619 ROA

オイレンブルク

フリードリッヒ・ツー・オイレンブルク伯爵(1815-1881)



フリードリッヒ・ツー・オイレンブルクの肖像
出典:bpk / P. Biegner Comp.

  • 行政法曹、外交官、政治家
  • 特命公使、1860/1862年の日中シャムプロイセン遠征隊隊長
  • 1862年12月から1878年3月、ビスマルク内閣で内務大臣を務める
  • 旅行中にオイレンブルクが家族に書いた手紙は、「Ost-Asien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preußischen Gesandten, betraut mit außerordentlicher Mission nach China, Japan und Siam [東アジア1860年-1862年–中国、日本、シャム行きの特別任務を託されたオイレンブルク伯爵の手紙]」というタイトルで彼の死後に出版された(参考文献リンク
  • 遠征に関連する文書類は、プロイセン文化財枢密文書館(Geheimes Staatsarchiv – Preußischer Kulturbesitz)に所蔵されている。これら未刊行資料の概要は 「Dobson, Sebastian und Sven Saaler (Hg.). Unter den Augen des Preußen-Adlers : Lithographien, Zeichnungen und Photographien der Teilnehmer der Eulenburg-Expedition in Japan, 1860-61 = Under eagle eyes : lithographs, drawings & photographs from the Prussian expedition to Japan, 1860-61 = プロイセン・ドイツが観た幕末日本 : オイレンブルク遠征団が残した版画、素描、写真」(pp. 373-374)に記されている(参考文献リンク

SBB-PKコレクションには、 オイレンブルクの蒐集品で偶然もたらされた文書群が一つだけ存在する。所蔵番号Libri japon.446に収められている、1通のオイレンブルク筆の書簡、2通の日本語による巻紙の書簡、そのオランダ語翻訳を合冊にまとめたものがそれである。オイレンブルクは書類の整理を几帳面に行う人物ではなかったらしい。遠征から戻って7年後、彼は日本での任務にまつわる文書を見つけ、以下の書簡と共に王立図書館に送付した。



王立図書館に宛てたオイレンブルクの書簡
出典:文書類(仮題), 所蔵番号Libri japon. 446-4

「ベルリン、1869年1月6日

書類の山をひっくり返していたところ2通の日本語による書簡を見つけたので、王立図書館にお預けします。これらは1860年に書かれたもので、プロイセンとの貿易条約を締結するのが目下不可能である理由を述べています。添付されているオランダ語の文書は、私の思い違いでなければ日本人の通訳モリヤマ・タキチロウの手による日本語からの翻訳です。

謹白
閣下の忠実な下僕
オイレンブルク」



「1860年9月18日、江戸で行われた外国奉行との会談梗概」封紙の表書き
出典:文書類(仮題), 所蔵番号Libri japon. 446-3

オランダ語訳に添えられた表記および封紙の表書きからわかるのは、日本語の巻物は、1860年9月18日(万延元年8月4日)にオイレンブルクが外国奉行の酒井隠岐守(酒井忠行、生没年不詳)および堀織部正(堀利煕、1818-1860)の二人と行った会談に関連する書簡だということである。その4日前の1860年9月14日(万延元年7月29日)、オイレンブルクそして日本側の交渉人である安藤対馬守(安藤信正、1820-1871)との最初の会談が行われた。オイレンブルクはこの会議で、プロイセンが友好貿易条約を締結したいと考えていることを表明していた。しかしこの要求は安藤によって却下された。安藤は過去に結んだ条約が非常に不利なものであったために、世論が条約締結に強く反対していることを示唆した。会議は実りのないまま終わり、安藤は近日中に日本の立場を外国人奉行の口から再度説明すると告げた。この説明は、同年9月18日に酒井・堀の両名によって行われた 。

「遠征記」([Berg, Albert (Hg.)]. Die preussische Expedition nach Ost-Asien. Nach amtlichen Quellen. Berlin, 1864, Bd. 1, p. 293)および1860年9月18日付のオイレンブルクの私信によると、その際に引き渡された書簡は1通のみだったように思われる。「先日すでに老中自ら私に伝えたことを繰り返し告げるよう言い含められ、送りこまれた奉行たちを2時に迎えた。彼らは念には念を入れ、全てを日本語で書き留めた1通の長い文書を私に渡した。」(Eulenburg, Philipp zu (Hrsg.). Ost-Asien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preußischen Gesandten, Berlin, Mittler, 1900, p. 74-75)

1860年9月19日付けの外務大臣アレクサンダー・フォン・シュライニッツ(1807-1885)宛てのオイレンブルクの書簡(1860年12月15日到着)を読むと、ここでようやくこの文書が2通であったことが判明する。オイレンブルクは次のように書いている。「彼ら(外国奉行)が言ったことはすべて、すでに老中から聞いたことの繰り返しにすぎなかったので、私は議論にあまり身を入れなかった。……彼らが私に告げたことは、 指針として持参した書面による指示に従った内容であり、最終的にはオランダ語訳を添えた長い日本語の覚書を私に渡してきたが、そこには彼らが述べたことが全てより明確に書かれているはずだった。」(Geheimes Staatsarchiv – PK, Akte III. HA MdA, II Nr. 5070, p. 174)



公式文書「老中書翰」の冒頭(文中の「覚書」)
出典:文書類(仮題), 所蔵番号Libri japon. 446-1



外国人奉行による指針の巻頭
出典:文書類(仮題), 所蔵番号Libri japon. 446-2



森山多吉郎によるオランダ語訳の文末
出典:文書類(仮題), 所蔵番号Libri japon. 446-3

ここで「覚書」と呼ばれているのは所蔵番号Libri japon.466-1の文書に当たる。公式には「老中書翰」という題目でプロイセン使節に宛てて書かれた文書で、出版された文書集に再録されている。

  • 原本所蔵外務省外交史料館、通信全覧編集委員会編「通信全覧 第6巻」、復刻版、1985、 pp. 178-180
  • 東京大学史料編纂所編「大日本古文書 幕末外国関係文書 第41巻」、復刻版、1987、pp. 145-147
  • 維新史学会編「幕末維新外交史料集成 第5巻」、1978、 pp. 93-94

これに対して所蔵番号「Libri Japan.466-2」に収められている文書には、老中安藤信正の代理を務める外国人奉行が重ねてより厳密に伝えることになっていた3つのポイントについて説明に用いた「指針」が記されている。この文書に関してはどこにも言及がなく、ドイツ側にしか伝わっていないようである。しかし幕府との交渉記録には1860年9月18日の会談の議事録があり、内容はこの「指針」と一致する。以下参照のこと。
『大日本古文書 幕末外国関係文書付録之八 対話書」 東京大学史料編纂所編、2010、pp. 416-424

北村宏(ベルリン国立図書館東アジア部)翻刻による「指針」(所蔵番号Libri japon. 446-2)のテキストはリンク先参照

日本側の両文書には、当時の通詞・森山多吉郎によるオランダ語訳も存在する(所蔵番号Libri japon 446-3)。印刷による復刻はリンク先参照

その他の人物

その他の遠征隊参加者およびその蒐集品については下記メニューから選択



マックス・フォン・ブラントの肖像(1873年の木版画)
出典:bpk

マックス・フォン・ブラント (1835-1920)

  • 外交官、作家
  • 1860/62年 プロイセンの東アジア遠征にアタッシェ(随行員)として参加
  • 1862年より在日領事、1867年より在日プロイセン代理公使、1868年より駐日プロイセン王国北ドイツ連邦代理公使・領事、1872年駐日ドイツ帝国全権公使に就任
  • 1875-1893 清国大使
  • 全3巻の回顧録「Dreiunddreissig Jahre in Ost-Asien. Erinnerungen eines deutschen Diplomaten [東アジアの33年-あるドイツ外交官の回想録]」をはじめ、東アジアに関する著書多数(参考文献リンク

1860年10月15日に行われた使節団と酒井隠岐守、堀織部正両外国人奉行との会談後の朝食の席で、アタッシェ(随行員)であるマックス・フォン・ブラントの名が話題に上った。酒井と堀はすぐさま日本でも知られた戦術書の著者と縁故があるのではないかと尋ね、マックス・フォン・ブラントが彼の息子であることを聞いて喜んだ。この作品は、ハインリッヒ・フォン・ブラント(1789-1868)が書いた「Die Grundzüge der Taktik der drei Waffen. Infanterie, Kavallerie und Artillerie [三兵戦術大綱  : 歩兵・騎兵・砲兵]」で、原著は1833年に出版された。同書はまずオランダ語に翻訳され、その重訳でなんと2種の和訳が出版された。「三兵活法」と題した訳書は鈴木春山(鈴木強)が1846年(弘化2)に著したもので、それより少し後の安政年間(1854-1860)には高野長栄の翻訳による「三兵古答知幾知」が出版された。



Die Grundzüge der Taktik der drei Waffen. Infanterie, Kavallerie und Artillerie」標題紙 (Berlin: Herbig, 1842, 2. verb. u. verm. Aufl.)
出典:所蔵番号Hv 597-6,1a



「Die Grundzüge der Taktik der drei Waffen. Infanterie, Kavallerie und Artillerie」より各種ユニットの戦闘陣形を図式的に表現したもの
出典:所蔵番号Hv 597-6,1a, p. 85



和訳「三兵答古知幾」にも同じような図式表現がある
出典:所蔵番号Libri japon. 14, Vol. 4, p. 21r



「三兵古答知幾知」第1巻表紙 (江戸, 1857年)
出典:所蔵番号Libri japon. 14



外国人奉行堀織部守から筆者へ贈呈」という献辞の書かれた書袋
出典:Brandt, Heinrich von., 三兵答古知幾, 江戸, 1857, 巻9-12の書袋, 所蔵番号Libri japon. 14)

1860年12月4日、堀は同作品の和訳をマックス・フォン・ブラントに贈呈した。この進物は、使節団派遣から長い歳月を経た現在、SBB-PKコレクションに加わっている。同作は後発の和訳で「三兵答古知幾」を標題とする。進物である証拠に、書袋の一枚(所蔵番号Libri japon. 14, 巻9-12の書袋)には、「外国人奉行堀織部守から筆者へ贈呈」との覚書が書かれている。これに加えて「Heri(ママ)」Oribe no kami [堀織部守]」と記されたもう一枚の書袋も存在する。(所蔵番号Libri japon.14, 巻13-16の書袋)



Heri(ママ)Oribe no kami [堀織部守]」と書かれた書袋
出典:Brandt, Heinrich von, 三兵答古知幾, 江戸, 1857, 巻13-16の書袋, 所蔵番号Libri japon. 14)


さらにマックス・フォン・ブラントの蒐集品としては、地図(所蔵番号8° Kart E 3404)、印刷物2点(所蔵番号Libri japon. 325およびLibri japon. 118)、写本(所蔵番号Libri japon. 468)、そして当館の日本古典籍コレクションの中で最も美しい作品群でもある絵巻物4点が存在する。この種の絵巻物は一般的に奈良絵巻と呼ばれているが、作者たちが奈良で活躍したわけでも奈良の地と関係があるわけでもない。

元興寺縁起
寛文期(1661-1673), 奈良絵巻, 所蔵番号Libri japon. 484

11メートルを超える長さの巻物において文章と5枚の絵で説明される伝説は2部から成る。両部の内容は他の文書でも伝わっているが、この組み合わせによるバージョンは同作が唯一のものとなっている。

前半部には飛鳥寺および元興寺の由来が記されている。仏教を信仰していた豪族、蘇我馬子が同寺を建立し、司馬達等の娘である斯米とその侍女は出家して寺の尼僧となった。図1では、斯米と侍女たちが尼僧となるため頭を剃っている

中国からの疫病が広がったとき、その罪は病と同じく中国から渡ってきた仏教に押しつけられた。仏教の敵対者、物部守屋と中臣勝海は元興寺を弾圧した。図2では、僧侶や尼僧は体から僧衣をむしり取られ仏像や経典が焼かれ、寺の建物が打ち壊される様子が描かれている。

しかし病が終息することはなく、人民は大きな苦難に見舞われる。皇子で摂政だった聖徳太子は、蘇我馬子と力を合わせて物部守屋一族を滅ぼした。聖徳太子は天王寺(四天王寺)を建立し、蘇我馬子が元興寺を再建した。その結果、地に平和が訪れ、仏教はさらに広まった。



「元興寺縁起」より図1, 斯米と侍女が頭を剃り尼僧になる
出典:所蔵番号Libri japon. 484




「元興寺縁起」より図3, 雷神出現
出典:所蔵番号Libri japon. 484

しかし元興寺には次いで鬼が出現するようになり、これが伝説の後半部分の始まりになる。この鬼は、滅ぼされた物部守屋一族の祟りだと考えられていた。

尾張国に貧しい農家の夫婦がいた。彼らが田畑にいたところ、急に嵐が巻き起こり、黒雲の中に雷神が姿を現した。夫婦は気を失うが、女房が懐胎して怪力の赤ん坊を産み落とした。図3には雷神の出現が描かれている。タツノスケと名づけられた子は16歳になると、 鬼を退治しようと鐘の音が鬼を惹き寄せる鐘楼で待ち伏せする。鬼は戦いの最中にタツノスケの怪力ぶりに気づいて逃げ出そうとする。しかしタツノスケは彼を捕えて離さなかった。図4は寺の鐘楼の場面で、タツノスケが鬼の髭を掴んでいる。

鬼はついに物部守屋の墓所となっている石塔のそばで息絶える。図5では、鬼の死骸が石塔の隣に描かれている。これにより、元興寺は鬼から解放され隆盛を誇った。タツノスケは道場法師と名乗る僧侶になった。この言い伝えは幼い子どもをたしなめる際に使われる「ガゴゼ[元興寺]が来るよ」という言葉の由来となっている。(参考:「ベルリン東洋美術館」, pp. 253-255, 参考文献リンク

この絵巻のほか、修験道の開祖・役行者の伝説を描いた「えんの行者」(寛文期(1661-1673), 所蔵番号Libri japon. 482)、京都・賀茂神社で5月12日(旧暦では4月中旬の午の日)に行われる祭列を描いた「みかげの御祭」(延宝元禄期(1673-1704), 所蔵番号Libri japon. 457)、そして月の王子と海王(竜王)の娘の物語「月王乙姫物語」(延宝期(1673-1681), 所蔵番号Libri japon. 458)の3点の奈良絵巻がある。

最後の「月王乙姫物語」は、それぞれ長さ12メートルと14メートルの2軸の絵巻から成る。物語は以下のような内容である。

「これは月王と龍王の娘・乙姫をめぐる伝説である。寺院の房に暮らす月王を乙姫が訪れたことで、彼は寺から破門され、家族からも放逐されてしまう。月王は竜宮で望郷の念に駆られる。姫は人々を救おうと、地上に戻る折に竜王の如意宝珠を盗み出す。二つの世界は一触即発の状態に陥るが、乙姫は竜宮に宝珠を返還し、夫となった月王とともに両親のもとへと戻る」(Kraft, Eva. Illustrierte Handschriften und Drucke aus Japan. 12.-19. Jahrhundert. Wiesbaden: Steiner, 1981, p. 42)

竜宮の場面は想像力に溢れており、海の住人は頭上に魚や貝殻、イカ、カニ、バイ貝などを乗せた異形の姿で描かれている。




「月王乙姫物語」より竜宮場面の一部
出典:巻1・図6, 所蔵番号Libri japon. 458

マックス・フォン・ブラントの蒐集品には、紆余曲折の末に王立図書館へたどり着いた作品がさらに2点ある。

  • 古美術の図録集である「集古十種」(所蔵番号Libri japon. 337)の場合、「公使館通訳の証言によると、1861年1月6日にマックス・フォン・ブラントの所蔵となり、その後1873年のウィーン万国博覧会日本役員団に随行したワグネル教授が、ヤゴール氏の働きかけにより同作を王立図書館に寄贈した」という (Kraft, Eva (Hg.). Japanische Handschriften und traditionelle Drucke aus der Zeit vor 1868 im Besitz der Stiftung Preußischer Kulturbesitz Berlin. Wiesbaden: Steiner, 1982, p. 281)
  • 北海道、サハリン、クリル諸島への調査遠征の地図は、メモによると「東西蝦夷山川地理取調図」(所蔵番号8° Kart. E 3420)というタイトルで、ブラント公使が1865年11月6日にプロイセン外務省に送付し、1866年5月21日に到着した。



フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵の肖像(1880年頃)
出典:bpk / Ernst Milster

フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵 1833-1905

  • 地理学者、地質学者、探検家
  • プロイセンの日本・中国・シャム遠征に同行 1860-62年
  • 1875年よりボン大学地理学教授、1883年よりライプツィヒ大学教授、1886年よりベルリン大学物理地理学教授
  • 1901年 財団法人海洋学研究所設立、初代所長就任、海洋学博物館設立(1906開館)
  • 1903-04年ベルリン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学学長
  • 主にカリフォルニア、中国、日本への調査旅行に関する地質学、地理学研究書を多数出版

リヒトホーフェンの蒐集品に由来する作品は24点存在する。リヒトホーフェンの収集した作品は植物や動物が描かれた図版など、彼の自然科学への関心を反映している。さらに王立図書館の収集任務に基づき、狩野派の画帳や複製作品、詩歌集や仏教図像の事典なども収集した。



「花彙」より華鬘草(ケマンソウ)
出典:草部, 第4巻, p. 12r, 所蔵番号Libri japon. 432

花彙
18世紀半ば, 全8巻, 所蔵番号Libri japon. 432

本作は草部と木部各4冊の2部で構成でされている。著者は島田充房(1764-1789)と小野蘭山(1729-1810)で、うち2冊が島田、残りは小野の筆によるものである。小野は植物学および本草学の分野で名高い学者で多くの著作を残している。有名な日本研究者フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philip Franz von Siebold, 1796-1866)が「日本のリンネ」と呼んだ人物でもある。

「花彙」は草花や樹木の形態を含む詳細な記述を収録している。欧州の言語で完訳が出版された日本の植物学の書籍は「花彙」で2冊目である。1865年から76年にかけて日本に滞在したフランスの海軍医で植物学者のリュドヴィク・サヴァチエ(Ludovic Savatier, 1830-1891)は、日本人のサバという人物の助けを借りて同書をフランス語に翻訳したが、この本は残念ながら挿絵抜きで1873年に出版された(Livres Kwa-wi ; Botanique japonaise ; trad. du japonais avec l’aide de M. Saba par L. Savatier. Paris : Savy, 1873)。

さらにサヴァチエと植物学者のアドリアン・フランシェ(1834-1900)は、「Enumeratio plantarum in Japonia sponte crescentium…」(Parisiis : Savy, 1875-79)と題した日本の植物に関する2巻組の書籍に収録する日本語の3作品の1つに「花彙」を選んだ。



「花彙」よりトチノキ
出典:木部, 第1巻, p. 21r, 所蔵番号Libri japon. 432

画巧潜覧
1740(元文 5), 全6 巻, 所蔵番号Libri japon. 94

狩野派の門弟、大岡春朴(1680-1763)が狩野派の作品および画家について概要を6巻にまとめたもの。内容は以下のとおり。

  • 巻1:狩野派の系譜と洛中洛外の情景を描いた名画の写し
  • 巻2:人物画と狩野探幽(1602-1674)の筆による絵巻中の馬および鶴の絵の写し
  • 巻3:狩野探幽の山水画・花鳥絵図の写し
  • 巻4:探幽の描いた日本および中国の人物画の写し
  • 巻5 :日本と中国の文様の手本画、様々な絵師の作品と署名の真贋に関する注意点
  • 巻6 :画家の署名と落款



「画巧潜覧」より瓢鮎図
出典:巻1, p. 13r, 所蔵番号Libri japon. 94

次の図は瓢鮎図(1415以前)の模写で、瓢箪で鯰を捕らえることの難しさについての禅問答の図(公案図)である。原画は日本における水墨画の先駆者とされる僧・如拙(14世紀末/15世紀初頭)によるもの。現在は国宝に指定されており、京都・妙心寺の塔頭である退蔵院の所蔵となっている。

「虎図」 は、滋賀県・三井寺の塔頭、日光院にあった水墨による障壁画を模写したもので、原画は狩野派の重鎮・狩野永徳(1543-1590)の作品である。明治時代(1842-1912)に実業家の原六郎(1842-1933)が、同寺院に伝わる壁画やその他の美術品を買い取った。同図は4軸の掛幅の形で、群馬県の原美術館 ARCに収蔵されている。



狩野永徳画「虎図」
出典:巻1, p. 18r-19v, 所蔵番号Libri japon. 94



「西遊旅譚」より岩国・錦帯橋
出典:巻2, p. 15v-16r, 所蔵番号Libri japon. 321

西遊旅譚
1803年改訂版(享和3), 全4巻, 所蔵番号Libri japon. 321

同書は1790年(寛政2)に初版が、1803年(享和3)に改訂版が出版された。作画ともに、日本画だけでなく油絵具や銅版を用いた洋画にも精通し、さらには洋学(蘭学)も学んだ日本の著名な画家、司馬江漢(1747-1818)の筆によるものである。「西遊旅譚」には、1788年から1789年の1年をかけて江戸(現在の東京)から長崎へ旅した経験談が書かれている。第1巻および2巻には実際の旅の記録がおさめられている。第3巻では、多くの外国人が居住する長崎で江漢の見聞きしたことが語られる。そして最終巻には漁業と捕鯨が取り上げられている。江漢は風景のスケッチを日本画の様式で描くいっぽう、図式的な表現には西洋画の様式を用いた。

第2巻に収められた挿図は、山口県岩国市にある有名な錦帯橋である。錦帯橋は1673年に建設された長さ193mの木造アーチ橋で、現在でもその復元した姿を見ることができる。



「西遊旅譚」よりオランダ人船長の室内
出典:巻3, p. 15v-16r, 所蔵番号Libri japon. 321

第3巻には、長崎に居留するオランダ人船長の屋敷の室内装飾を西洋の一点透視図法を用いて再現した絵がおさめられている。SBB-PKの所蔵資料では欠けているが、この絵の標記にはシャンデリア、肖像画や絵画、ガラス製品や椅子に関する記述が見られる。同標記は、国立図書館(NDL)所蔵の1790年(寛政2)原版で見ることができる(復刻版は司馬江漢著「江戸・長崎絵紀行 : 西遊旅譚 」国書刊行会、東京、1992、p. 125を参照)。



ロベルト・ルーチウス・フォン・バルハウゼン男爵の肖像(1880年頃)
出典:bpk / L. Haase Co.

ロベルト・ルーチウス・フォン・バルハウゼン男爵(1835-1914

  • 医師、政治家
  • 1860-62年プロイセンの東アジア遠征に医師として同行
  • 1866年以降政治家に転身、国会議員に複数回選出、1871年以降オットー・フォン・ビスマルクと親交を深め、1879年から1890年までプロイセン農務大臣、1895年よりプロイセン貴族院議員に任命
  • 1888年 男爵位を授かる
  • 没後の1920年に出版された「ビスマルクの記憶」は手の加えられていない証言として、ビスマルク時代の貴重な資料とみなされている

1859年から60年の冬、まだ爵位を持っていなかったバルハウゼンは、 ロベルト・ルーチウス医学博士として使節団の船医のポストに応募した。しかし申請は受理されなかったため、彼はひとまずスペインのモロッコ遠征に加わった。その後カイロに滞在したバルハウゼンは、使節団結成の地シンガポールに陸路で向かう使節団のアタッシェ(随行員)、マックス・フォン・ブラントとテオドール・フォン・ブンゼンの知己を得た。その後も単独行を続けたバルハウゼンはセイロン(現スリランカ)で、ようやく使節団代表オイレンブルク伯爵と面会し、報酬を放棄するならば医者として使節への同行を許すという申し出を受けることにした。

バルハウゼンは日本・中国・シャム(現タイ)遠征に引き続き、インドからヒマラヤへ単独で向かい、3年後にプロイセンへ帰国した。ある評伝には、日本滞在について「大量に購入した銅器、漆器、刺繍、本に絵画などの品々は、のちの彼にとって興味深い日本の冬の鮮やかな思い出になった」と記されている。(Mitteldeutsche Lebensbilder, Magdeburg: Selbstverlag der Historischen Kommission für die Provinz Sachsen und für Anhalt, 1927, Bd. 2, p. 411)

バルハウゼン・コレクションに由来する所蔵品は約50点あり、そこにには数点の地図、風景の描写 、伝説や歴史上の人物に関する絵入り図鑑のほか、数冊の医学書が含まれている。

瘍科精選図解
刊行年不明(序文1819(文政2)), 2巻, 所蔵番号37641 ROA

同作は主に西洋医学の手術器具について、筆者の越邑徳基(生没年不詳)が日本語で解説を加えたものである。図版はドイツの著名な外科医であり植物学者だったローレンツ・ハイスター (1683-1758) が1719年に出版した「外科学」からの引用である。この作品はドイツで何度も重版され、様々な外国語に翻訳された。また日本における西洋の医療技術導入に大きな影響を与えた。



「瘍科精選図解」より西洋医学の手術器具の挿図
出典:巻1, 頁数なし, 所蔵番号37641 ROA

紫式部源氏かるた
1857(安政4), 折本, 所蔵番号37647 ROA

本作品は、宮廷に仕えた紫式部(10世紀後半-11世紀前半ごろ)によって書かれた54帖からなる日本最古の小説「源氏物語」を模した作品である。大きな成功を収めていた絵師、歌川国貞2世(1823-1880) の筆による絵札は全部で54枚あり、それぞれに題名、絵師と出版者の名が入り、改印(あらためいん)が捺されている。実際に描かれているのは、1829年から1842年にかけて連載・出版され、絶大な人気を博した「源氏物語」のパロディ作品「偐紫田舎源氏」の場面である。原作の「源氏物語」は軽くなぞる程度にとどめられ、複雑に入り組んだ物語の舞台は15世紀に移されている。この挿絵をたっぷり交えた小説のおかげで、源氏物語をモチーフとした版画の源氏絵は大変な流行となった。

右の絵は第4帖の題名「夕顔」である。遊び人の光氏(原作の光源氏にあたる)が右手に立ち、抜刀の構えで立っている。彼の前には膝立ちになった愛人・黄昏(原作の夕顔)がいる。黄昏は夕顔の文様の着物に身を包んでいる。日本語で「夕顔」というこの花の名は、オリジナルの「源氏物語」に出てくる同名の人物とリンクしている。黄昏は竹の簾をかざして阿古木の怨霊から身を守ろうとしている。阿古木(原作の六条御息所)は高位の女郎で、光氏のもう一人の愛人だったが、光氏が自分より位の低い黄昏と関係を持ったことに激怒した。阿古木の傍らの化物は牡丹の絵柄の灯篭で、日本語で「牡丹灯籠」と言えば幽霊の代名詞である。作中のこの灯篭は有名な幽霊話の一つである「牡丹灯籠」をモチーフにしている。



「紫式部源氏かるた」より第4帖「夕顔」の挿絵
出典:頁数なし, 所蔵番号37647 ROA



「肥前長崎図」より出島の見える部分
出典:所蔵番号37614 ROA

肥前長崎図
安政期(1854-1860), 46,3 x 69,6 cm(折畳時: 15,7 x 8,8 cm), 所蔵番号37614 ROA

同図は長崎の港と街の地図で、他の日本の都市との距離も記されている。地図にはグリッドもスケールもない。ここでは日本の鎖国時代に欧州の窓口だったオランダの商館が立ち並ぶ扇型の人工島、出島がはっきりと見える。その横には、中国商人の長屋が並ぶ四角い島がある。さらに2隻のオランダ船も描かれており、左の船は礼砲を撃っている最中である。

参考文献


参考文献

人物について

::: Brandt, Max von. Dreiunddreissig Jahre in Ost-Asien. Erinnerungen eines deutschen Diplomaten ; in drei Bänden. Leipzig: Wigand, 1901 (Vol. 1: Die preussische Expedition nach Ost-Asien : Japan, China, Siam, 1860-1862 ; zurück nach Japan, 1862)

::: Dobson, Sebastian und Sven Saaler (Hg.). Unter den Augen des Preußen-Adlers : Lithographien, Zeichnungen und Photographien der Teilnehmer der Eulenburg-Expedition in Japan, 1860-61 = Under eagle eyes : lithographs, drawings & photographs from the Prussian expedition to Japan, 1860-61 = プロイセン・ドイツが観た幕末日本 : オイレンブルク遠征団が残した版画、素描、写真. München: Iudicium, 2011

::: Eulenburg, Friedrich zu. Ost-Asien 1860 – 1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preußischen Gesandten, betraut mit außerordentlicher Mission nach China, Japan und Siam / Hg. von Philipp zu Eulenburg-Hertefeld. Berlin: Mittler, 1900

::: Lucius von Ballhausen, Robert. Selbstbiographie. Hg. von Frh. Hellmuth Lucius v. Stoedten. Görlitz : Hoffmann & Reiber, 1921

::: Mitteldeutsche Lebensbilder. Hg. von der Historischen Kommission für die Provinz Sachsen und für Anhalt. Magdeburg: Selbstverlag der Historischen Kommission für die Provinz Sachsen und für Anhalt, 1926-1930, 5 Bde

::: Richthofen, Ferdinand von. Ferdinand von Richthofens Aufenthalt in Japan. Aus seinen Tagebüchern. In: Mitteilungen des Ferdinand-von-Richthofen-Tages 1912. Berlin: Reimer, 1912, pp. 19-185

::: Schwalbe, Hans und Heinrich Seemann (Hg.). Deutsche Botschafter in Japan 1860-1973. Tōkyō: Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens, 1974 (Mitteilungen der Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens; 57)

SBB-PKの日本古典籍コレクション所属資料について

::: Bartlett, Harley Harris. Hide Shohara. Japanese botany during the period of wood-block printing. Los Angeles : Dawson, 1961

:::『ベルリン東洋美術館』  平山郁夫、 小林忠編著 東京 : 講談社、1992(秘蔵日本美術大観 ; 7)

::: Hillier, Jack. Japanese prints : 300 years of albums and books. London : Brit. Museum Publ., 1983

::: Kraft, Eva. Illustrierte Handschriften und Drucke aus Japan. 12.-19. Jahrhundert. Wiesbaden: Steiner, 1981

::: Kraft, Eva. Die Japansammlung der Staatsbibliothek Preußischer Kulturbesitz. In: Bonner Zeitschrift für Japanologie, 3.1981, pp. 111-120

::: Kraft, Eva (Hg.). Japanische Handschriften und traditionelle Drucke aus der Zeit vor 1868 im Besitz der Stiftung Preußischer Kulturbesitz Berlin. Staatsbibliothek und Staatliche Museen: Kunstbibliothek mit Lipperheidischer Kostümbibliothek, Museum für Ostasiatische Kunst, Museum für Völkerkunde. Wiesbaden: Steiner, 1982 (Verzeichnis der orientalischen Handschriften in Deutschland ; XXVII,1)

::: Kraft, Eva. The Japanese collection in the ‚Staatsbibliothek Preußischer Kulturbesitz‘ in Berlin. In: Japan Forum, 3.1991, Nr. 2, pp. 211-220

::: エヴァ・クラフト、北村浩、沢井耐三編者 『西ベルリン本お伽草子絵巻集と研究』 豊橋 : 未刊国文資料刊行会、1981 未刊国文資料 ; 第4期第10冊)

::: Mitchell, Charles H. The illustrated books of the Nanga, Maruyama, Shijo and other related schools of Japan ; A bibliography. Los Angeles : Dawson’s Book Shop, 1972

::: Toda, Kenji. Descriptive catalogue of Japanese and Chinese illustrated books in the Ryerson Library of the Art Institute of Chicago. Chicago, 1931

同館東アジア部について

::: Kaun, Matthias. The East Asia Department of the Berlin State Library: German National Resource for East Asian material. In: 圖書館學與資訊科學  = Journal of library and information science, 33.2007, Nr. 2, pp. 9-18

::: Kaun, Matthias. Die Ostasienabteilung der Staatsbibliothek zu Berlin. In: Zeitschrift für Bibliothekswesen und Bibliographie, 54.2007, Nr. 2, pp. 59-66

::: Säuberlich, Wolfgang. Die Ostasienabteilung der Staatsbibliothek. In: Jahrbuch Preußischer Kulturbesitz, 1971, pp. 181-202